• 些事

    些事

    ピアノ教室へ行く。かえるのうたの「ドレミファミレド」が弾けず鍵盤から手を下ろして先生を焦らせた上の子だったが、練習の甲斐あって今日は弾くことができた。「ちゃんと練習してきたんだね」と先生に言われたことについて、寝る前に「よかったね」と話しかけると、「先生がピアノ弾くときカシャカシャいってた」と返される。多分エレクトーンのペダルの音だろう。私にはそれは聞こえず、先生に褒められて得意になっていたのは自分だけだったのだと知ると同時に、子どもは「今ここ」に集中する天才だと思う。私も多分、昔はそれができていた。いつ、どうしてできなくなってしまうのだろう。

    ストレートでありながらきつくないものの言い方をする人と久しぶりにやり取りをして、こうなれば自分も自分を守ることができると思う。

    砂粒のように生活をしている 昨日食べた朝食を十年後に思い出すような

  • 意志あるからだ

    下の子の4ヶ月検診へ行く。帰り、同じく検診に来ていた母親がバッグを落としたので拾ってまあまあの距離を追いかける。「違いますか?」とバッグを差し出すと「あっはい。ありがとうございます」という感じで、そのまま信号待ちになり気まずい雰囲気が流れる。信号は青になり、きっと目的地は同じ駅だろうがどちらからともなく離れてゆく。けれどもベビーカーにこれでもかとおもちゃやポーチをつけ、日傘をさして片手でベビーカーを押す母親の態度からは自分を曲げないという意志が感じられてなんとなく勇気づけられる。そしてそう思えたのは、検診で保健師さんや助産師さん、看護師さんや栄養士さんに頑張ってるねと言ってもらって、子どもをかわいがってもらったから。そしてたくさんのコロコロとした赤ちゃんたちをみたからと思う。人に優しくされることで、自分が大切にしているものを同じように大切にされることで、同じような人がいると思えることで、心は充電される。

    好きに泣き好きに眠って好きに食べ意思あるからだになってゆくよ

  • 代わりのいない

    仕事の頭を切り替えられないまま一日過ごす。これも慣れなのだろう。嫌なことはスルーして、感謝の言葉をさらっと言えるようになろうと思う。子どもの写真を撮るときはいつも自然に撮るようにしていたけれど、最近声をかけて笑わせてから撮る方法も試している。こんなふうに落ち込んだとき、子どもの笑った写真はいちばんの癒しだし、仕事が大切で仕事をしているわけではないと思えて楽になる。

    ほんとうは何をしててもしあわせだ 代わりのいない場所にいること

  • 夏至

    虎に翼。父母がいなくなり、夫もいなくなり、までは朝ドラでよくあるけれども、同じ年頃の女性二人(それも主人とお手伝いという関係でない)が一つの家をまわしていくという展開はそうなかったように思う。これまでの花江ちゃんの描かれ方が家事育児を担う女性として画期的でいいなあと思ってきたので次週からも楽しみ。

    上の子が帰ってきてからは公園へ出かける。偶然園の友達と会い、みんなで一緒につるつるの石を探した。「持って帰りたい」と言うので特に好きなものを一つだけ選んで持って帰ることにする。けれどもその後友達にもらったパイの実がよほど嬉しかったらしく、それをしっかり握り締め石は公園に忘れてきてしまった。

    一方で昨日、ショッピングモールのベビールームで下の子のオムツを替えていたら突然「なんで花岡さん死んじゃったの?」と尋ねてきた。目の前のことしか考えていないようで、大人が忘れ去ってしまったようなことを突然思い出す。子どもの頭の働き方は面白いなあと思う。

    選ばれて放りだされたつやつやの石は夏至だと騒いで跳ねる

  • 消えたものたち

    消えたものたち

    イベントに出す本もしおりも入稿したし、直近の仕事も終わったので休む日にしようと決める。とはいえ子どもはそんな事情は知らないから、前々から入ってみたかったコーヒースタンドを10分足らずで後にする。席についていたその10分足らずのあいだに、紫陽花を自転車の前カゴに入れたおばあさんがガラスの向こうを通っていった。知らない人の生活に思いを馳せる。こうしていればいいのだと思った。

    出かけた帰り、昨日行った英語教室が電車の窓から見えて「先生もう寝てるんじゃない」と上の子が言った。ただの貸し教室なのだが、子どもはそこに先生が住んでいると思っているらしい。「でもどこにベッドがあるんだろうね」と大真面目に言っていた。

    消えた言葉、消えた空気、消えたひかりのかたちの上を今日も生きている。

  • とあるシーン

    とあるシーン

    覚えておきたい美しいシーンはたくさんあったのに、もう思い出せないでいる。

  • 寂しさ

    今日の虎に翼。桂場の「正論は見栄や詭弁が混じっていてはダメだ。純度が高ければ高いほど威力を発揮する」という台詞がじわじわと効いている。その助けは、その批判は、「自分をそう見せたい」という願望から生まれたものではないか。ツイッターでよく見た仕草であるし、身に覚えもある。では純度の高い正論(言葉)はどこから生まれてくるのだろう。SNSに長い間身を浸していたものだから忘れかけてしまっている。

    お世話になった保育園の先生がひらいた絵本のイベントへ行く。「わたしとあそんで」「もりのなか」「だいくとおにろく」「こすずめのぼうけん」他にもかたつむりやしずくの本などたくさん読んでもらう。「わたしとあそんで」と「もりのなか」は似た雰囲気が漂っていて、そのことを言うと先生は「少し寂しい感じが似てるよね」と言った。たくさん動物が出て賑やかな点でなく、そこはかとなく漂う寂しさを取り上げた先生に子どもを預けることができて良かった。家に帰り今年はじめてのクーラーをつける。