月にいる

同居人の母方の祖父が亡くなったためお葬式に参列する。大通り沿いのセレモニーホールを車で通り過ぎるとき、喪服を着た人々を窓越しに眺めては「私にとってはありふれた一日だけれども、誰かにとっては大切な人が亡くなった日なのだ」と思っていたが、今日は私がそう思われる側になった。

故人には数回会ったことがある。最後に会ったのはもう何年も前だ。「またうちの庭でバーベキューしよう」と大きな声で言っていたおじいさんがもう動かなくなっているのを見て、不思議で少し申し訳ない気持ちになった。同居人にも義母にも何も言われることがなかったのでそうしていたが、上の子を故人に会わせたのは生まれたばかりのとき、一度きりだし下の子は会わせることもなかった。もしかしたら義母は何か言っていたかもしれないが同居人からそれを聞くことはなかったし、自ら子どもたちを連れていくこともなかった。本当はどうだったのかは分からないけれど、コミュニケーション不全のまま死ぬのは嫌だと思う。

上の子に「大きいじいじがお空から見てるよ」と伝えると「どういうこと?」と訊かれる。死んだ人がお空に行くという概念はまだないらしい。「どうやって行ったの?」「羽が生えたのかな」と子どもらしい推測をしていた。外に出ると爪の先のような細い月がでていて「大きいじいじ月のところにいるんじゃない」と言っていた。

梅雨晴間カルビもタンもたいらげてわたしもきみもいつか死ぬひと

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA